美味しい鰹に巡り会った思い出
あれは、
昭和40年代末か50年頃、私はまだ20代
でした
三重、和歌山のけんけん船(房州で言う曳
縄釣り~トローリング)が5隻から10隻
で船団を組んで伊豆諸島房総沖海域を操業
する形態が定着した初期の頃でした
船は、5トンから10トン位の木造船で
速力は時速7~8マイル位
現代のFRP漁船と比べれば3分1の速力の
時代でした
通信手段は、母港にある基地局との短波無線
だけ、通信範囲は見通しの出来る30マイル
位まで、母港を遠く離れた伊豆諸島以東海域
では、船間の情報交換だけに制約されます
したが、下田は操業する海からは近いが
陸路のトラック事情が良くなく相場が安い
千葉県勝浦を考えて入って見ましたが、地元
船が多く港が狭い、港口の悪い千倉に恐る
恐る入って来た1船団の廻船業務を私が見る
事になりました
先ず、地元船、漁協市場と話合い係船場所
を指定しました、
船団は安心して喜んで千倉港に水揚げして
くれる様になりました
通信手段も私の家の受信機に傍受用の周波数
を増設して入港情報が事前に受信出来る様に
しました
あれは、5月の大型連休の初日でした
スイッチの入っていた受信機が騒々しくなり
ました
契約した船ではない別の船団の話声です
その内に
「千倉の問屋さん宛、藤良丸船団(契約済)
はまだ操業中、本船外5隻入港水揚げしたい
手配お願いします」と送信して来ました
連休で消費地市場は休み、連動して地元船も
休漁、浜の市場も休業状態
市場の責任者に電話して入港水揚げを伝え
、休みにしていた家の作業員も召集する様
に母に頼み浜に急ぎました
市場の責任者は私の所へ来て
「最悪の条件だ、仲買に連絡がつかない、
断ろうか」と言います
「駄目だ、全部受ける、他所の船に千倉を
計られるのだ、制限量無しに受け入れれば
千倉の実力は際限を見せない、やります」
水揚げを始めると契約外の船が続き、より
良い鰹が10tからになりました
「おい、水嶋わらあでいじょうぶか?明日あ
ん市場休みい分かっていっだぺな」
(おい、水嶋、お前大丈夫か?明日の市場の
休みは承知しているだろうな)と心配して
言ってくれる仲買人もいます
入札しましたが不調でした
全量「敷き札」で決まりました
敷き札とは、売り側である廻船問屋が入札
する最低保証価額です
即ち全量私に落札でした
私は、それまで1日せいぜい2~3tの鰹しか
買った事がありませんでした
消費地市場休日の悪条件の元で4倍量をこな
す、無理を通り越しています
公設の消費地市場が無く、私設市場だけの
茨城県内の市場に連絡して出荷しましたが
半分以上は出荷先がありませんでした
やむを得ず浜に止め置きました
当時は、現代のスチロール箱の出来ていない
時代です
木の40kg入りの樽に入れて氷を詰めシート
で覆って置くだけ、
夕飯のおかずを1尾持って帰りました
親父が刺身を造りながら「こんかっつはうん
めえ、見た事ねえいいかっつだあ」と言って
います
母は、仏壇と氏神様に刺身を盛った小皿を
お供えしお唱えをしています
「息子が無理に買い過ぎた鰹がなんとか
売れてくれますように」と願ってくれたのだ
と思うのは今になっての事❗️
夕飯のおかずは親父の言う通り美味しい鰹
でした
赤みはねっとりしっとり、皮下は鮮やかな
温州みかん色、あぶらたっぷりです
問題は翌早朝に起きました
委託した市場からの電話です
予想を大きく超える売り値を伝え、後有りそ
うか?と言います
3ケ所の市場が異口同音に同じ事を言って
来ました
「有るでしょう昼過ぎにはわかります」と言
って返事をし、止め置きしてあった鰹を荷分
けして積みました
2日目も鰹を食べました
売り先の本職に評価された鰹は、なをさら
美味しく感じられました
今年の鰹は、50年昔の20代の食感覚を
思い出させるに十分な美味しい鰹です
何よりも今年はお安いです
どうぞ沢山召し上がれ